推定と想定

風景写真にかぎらず写真は、これから撮影しようとしている被写体がフィルム又はプリントにどのように写るかを推定できるかできないかにより自分のイメージしたものが得る事ができるかできないかが決まる。

よく推定と想定を間違えた解釈で使われることが多いが、推定とは根拠を元にして結果を導き出すこと。
想定とは、根拠を元に結果を想像することで、写真撮影には推定と想定がひじょうに重要であると思う。
よく言われる、「思いもよらない写真が撮れた」「偶然にもこんなに綺麗に写っていた」「たまたま撮れた」など言われるものは推定でも想定でもなく単なる偶然でありそこには何の根拠もない。
何の根拠もない偶然撮れたものを写真と言ってしまう、それは些か疑問に感じてしまうのである。
しかし、現代に氾濫するそのほとんどのものがそれが多く、それらは現代の高性能な自動式カメラによって生み出された偶然の産物と言える。

これら推定と想定をするためにはその元になる根拠が必要で、根拠こそが写真の全てと言っても間違えではないと思う。
では、写真の根拠とはなにか ?
カメラ、レンズ、フィルムなどには基準(規格)があり、その基準を元に製造されている。
保存時の劣化や事故による規格外の物は別にとして、各機材はそれらの基準の組み合わせで写真なるものを生み出していて、決して偶然に写真ができているわけではない。
しかし、製品には許容範囲があり、全く同じ製品を比べてもわずかではあるが個体に差があり、使用しているカメラ、レンズ、フィルムと同じ物を使っても、各許容範囲の差が増大したり打ち消し合ったりして全く同じ物を得る事は難しい。
そこで必要になるのは、使用機材と推定との摺り合わせである。
この摺り合わせにより、はじめて推定が成り立ちさらに想定へと進むことができる。

現在多く氾濫している電子式カメラは、この推定の摺り合わせがすでにメーカーで一定レベルの範囲で完了している。
しかし、この推定の摺り合わせが自分にとって正しい摺り合わせが成されているかどうか ? まず有り得ないことである。
そのことはメーカーも承知しており、その為にある一定量の補正機能を持たしている。
考えようによっては親切のように思えるが、これが又厄介なものでメーカーが推定した元になる根拠をはっきり示さずに補正機能だけを付け後はユーザーの勝手にと言う具合で、はっきり言って中途半端で無責任な機能になっている。
それに比べ、何の電子機能もない写真機は推定と想定がとても簡単にでき、機械的又は物質的なコンディションを一定に保つことができれば他人が作った推定と想定に左右されることなく高いレベルの推定の摺り合わせができる。

では、写真の推定とはいったい何なのか。
目の前の被写体に対して、写真の完成体(プリントやポジフィルム)に至るまでのプロセス全てを根拠を元に定義付けをすることである。
その最も知られているのがアンセル・アダムスの開発した写真制作理論である「ゾーン・システム」である。
モノクロ写真をやっている人達は昔から当たり前のようにしているが、カラーの場合、写真の完成体までのプロセスの現像を含む撮影プロセス以外を自分で行うことはかなりの知識と経験と設備が必要となりなかなか手を出せないのが現実で、現像からプリントまでは他人任せにせざるおえない事情にある人(私も含め)が多い。
通常プロラボ゙と呼ばれているところでは、現像からプリントまでを厳しい基準を元に安定した品質を提供している。
ただ、プロラボと名のっていても品質管理ができていないところもあるので注意しなければならない。
それら、厳しい基準を元に安定した品質を提供しているところに出す条件で、撮影までのプロセスを根拠のあるデーターを元に事前に作った推定で撮影作業を進めれば安定したものが手に入ると言うわけである。

推定と想定とは別に写真には感性が強く影響している。
この感性がとても重要で厄介なもので、感性は人により様々で簡単な例をあげれば、ある男性はその女性を見て綺麗だと思うが、ある別の男性は同じ女性を見ても綺麗だとは思わない。
これが感性の違いである。
見た目だけで物事を判断する人と、その内面的なものまでもをしっかり観察して判断する人、感性の違いによって人は本能的に見た物の判断をする。
写真を撮影する上でこの感性の表現力そのものと推定と想定が相俟ってはじめて写真が完成する。
ただ目の前にあるものを写すことが写真とは言えないのである。


                                     

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