これは以前実際に私と私の娘が体験したことです。
ある夏休み家族で上高地にハイキングへ行ったとき、明神池から河童橋へ戻って来たときの事でした。
まだその頃は私の娘も幼い頃で、梓川の鴨を見ると二人で追いかけてはしゃいでいた頃のことです。
五千尺ホテル(昔の五千尺ロッヂ)の前まで来たときに鴨が大勢の観光客が歩いているところに2羽いたのを娘が見つけ走りよったときでした、当然鴨は小走りに逃げ出そうとしましたがその直後、60すぎのいかにもメタボの老夫婦から「コッラー!!」と大きな怒鳴り声が発せられました。
その老夫婦の男性は鴨を写真に収めようとしていたらしくカメラバックから67くらいのカメラを取り出そうとしていました。
すぐ横には若いカップルが35の一眼レフカメラで同じ鴨を撮ろうとしていた所に私の娘が走りよってきて鴨に触ろうとしていた愛らしい娘と鴨を写そうとしていた所に、あまりにもの大声に驚いたのかファインダーから顔を出して苦笑いをしていました。
鴨は当然大声に驚き川に逃げ込んでしまいました。
さて、これを読んでいる貴方ならどちらのカメラマンになりたいですか??

昔からそうでしたが、観光地をはじめ色々な写真の名所などで写真を撮っている人の中には、その場所が自分一人の物のように身勝手な人が必ず一人や二人はいます。
あの時の若いカップルがせっかくのシャッターチャンスを逃し、何も言わず笑っているにもかかわらず不機嫌な顔をしてカメラをバックにしまうあのオヤジの顔を見ていたら、同じ写真を趣味に持つ自分がはずかしくなります。
写真は撮る人の心を写すとよく言われますが正しくそのとうりだと思います。
穏やかな気持ちで撮った写真を見ると見ている人も心が穏やかになりいやされたり、興奮して撮った写真を見ると何処かけばけばしさを感じます。

おそらくは、60の定年になるまで会社ではそこそこの役職についていてえばり腐っていたのだろうと思うが、それが引退してからも愚かにもまだ引きずっているのではないかと思うが。
何故こういう連中は自分の撮りたいものに必死になるのか? とっさの判断で切り替えることができないのか?
それ以来私は、観光地などで大きなカメラや三脚を持ち歩く中高年を見ると「小金持ちの自己中な暇をもてあそんだ目蔵連中が今日もいるなー」と思うようになってしまった。
「全く最近の年寄は成ってないね !!」
と言いながらも気が付くと私も40代後半、後ちょっとで50である。
昔の人はよく言ったものである「人のふり見て己のふり直せ」。

若い頃から写真をやっているにもかかわらず、今だ写真の技術は初心者以下、自分でも判ってはいるものの自分が撮った写真を他人が見て「素晴らしい写真ですね」とか「ワー ! スゴイー ! 」と言われる写真よりそれを撮った自分が納得できる写真を撮りたい。
写真を撮るということは、撮る人それぞれに被写体に対してそれぞれの思いがあるはず、フォトコンテストのように万人受けいや、審査員の好みに合わせた写真を撮っても全然面白くも何とも無い。
決して私は万人受けするフォトコンテストをやじっている訳ではない、構図にしろ何にしろ基本というものが有ることは承知している。
人が絵や写真を見たときに美しいと思う基本的な構図として黄金比というものが有ることも私は知っている、がしかし、わたしは構図を決めるときに全くと言ってよいほどそんなものは気にもしない、自分が見た風景をそのままの形で残すただそれだけなのです。
これを読まれている人の大半は「こんな考えでいるからいつまでたっても初心者レベルの写真しか取れないんだ」と思われると思うが、はっきり言ってこれが私の写真ですから。
見る人に感動も何も与えない単なる無駄なお金と時間の浪費、究極の自己満足の写真、それがAkiraのピントグラスです。


                                              

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