今更なぜ大判 ?

大判をやられている人に、なぜ大判なのか? と尋ねると、真っ先に返ってくる答えが 「フィルムの面積が広い為、解像度や立体感が35_や中判に比べると圧倒的に良いから」 と答えられる方が多いと思います。
その次に返ってくる答えが、「アオリが使える為思い通りのイメージに仕上げる事ができる」 「写真を写すというプロセスが一つ一つ自分自身で行なわなければならず、自分で撮ったと言う満足感を味わう事ができる」 など多くの人達が同じ事を言います。

ここに上げた事は一見大判が持つメリットばかりに見えますが、逆にデメリットでも有ると思います。
撮影プロセスが非常に複雑で光学特性など理解しなければならない事が多く、ほとんど手持ち撮影はできないに等しい為、機動性が非常に悪い。
例えば三脚にカメラをセットしてレンズを付けただけで電源を入れてシャッターを押すだけの一眼レフカメラに比べると、撮影できるようになるまでに要する時間は3倍以上になります。
一部のクイックチェンジゃーやグラフマチックフィルムホルダーを除き、基本的にフィルムは一枚ずつ入れ替える事になりますので連射ができない、特に目まぐるしく変化する気象条件では、いわゆる一発勝負。
カメラ、レンズ、フィルムの他に必要な撮影機材が多いため、機材重量が増す。
フィルムの面積が広い分、わずかなミスが作品に大きく影響してしまう。
一枚当りのフィルムや現像コストがかかる。
など、メリットよりもデメリットの方が多い世界です。

ロケーションにもよりますが、カメラを絶えず首から下げ、目に入った被写体を次から次と撮影するスタイルの人は決して大判に手を出さない方が良いと思います。
撮影に出かける前に、今回の撮影のポイントや狙いを有る程度定め、又この条件を撮るまで何時間でも一箇所から離れないと言うモチーフに徹底的にこだわり、時間の許す限り又はフィルムが無くなるまで石の様な待ちの心が必要になります。

これらのデメリットをメリットに変えた時、初めて大判を使う意味が出てくるのではないでしょうか。
たった一枚の為に、重い機材を背負い周りの人達が35_や中判の機動力を生かして飛び回っている中、一人黙々と目的の場所にたどり着く為にあげきながら何年も同じ所に通い続ける。
これこそが究極の写真道楽。

ではなぜそんなに重い思いをし、手間をかけ大判を未だに私が拘るのか。
私は山以外のモチーフには大判を使いません。
これまで長い間に35_から始まり、645、67の中判と、様々なホーマットで山を撮り続けてきましたが、山の部分的な一部を切り抜くような撮り方ではほぼ満足できますが、山全体を入れるような場合では自分がその山に対してのイメージする表現に乏しいと思い、最終的に4×5判にたどり着き、山の表情を余すことなく表現できるのは大判しかないと思っているからです。
実際の目で見た山の姿と、実際に登ってみた時の印象はかなり違います。
実際登ってみた時の山の険しさや、質感を表現する為には大判の圧倒的な表現力が必要だと思っているからです。
特に質感に関しては、大きな山自体の岩の質感や、雪が付いた時の雪の質感など中判クラスでは部分的に切り取らないと表現できない圧倒的な表現力があります。

私が山で撮影する時は、撮影ポイントに普通3時間前、最低1時間前にカメラのセッティングを完了させます。
カメラのセッティングが完了したら、被写体となる山との会話をはじめ、「今日のお前さんのごきげんはどうだ?」 ピントグラスに写る姿をじっくりとなめる様に見つめながら「今日はきげんが良くないなー」 なんて事を会話しながらその時に一番ベストと自分で思う構図やピントを決めて行きます。
決して思ったような状態にならなくても途中で引き上げたりはしません。
例えば、夕日に照らし出される山膚を狙っていたとして、途中で今日は焼けないとわかったとしても決してその場からは日が沈むまで離れない。 
全ての撮影プロセスを通じて、モチーフに対して最大限の敬意を持ち続ける。
その日に出会ったモチーフの一番の姿を必ず焼き付けてやる。
これが私が大判を使う本当の理由でもあります。


                                      

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